頭サビ9割

「まずいレストラン」が売れる時代

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ナオキケーです(@naokikei41)。

「まずい料理」を食べたとき、状況にもよるけど、もちろん気持ち良くない。例えば、誰かとデートしているとする。わりと良い雰囲気の店を選んだにも関わらず、料理がまずかったら、これ、最悪。

「2度と来たくない」って思ってしまう。

でも、ゼロベースで考えてみる。すると、まずいのは本当に良くないかというと、そうじゃないと思う。今日はそんな話。

「まずい」や「つらい」はしあわせ再確認ビジネスだ

結論から言うと「まずさ」は美味しさを再確認する手段として良いと思う。「まずい」をたまに体に入れるから、美味しいものを食べたとき、比較して美味しいと思える。

どういうことかと言うと、平和で例えると、わかりやすいかもしれない。

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人々は平和をどんなときに、感じるだろうか。もちろん人によって、感じるタイミングは違う。僕だと、オーストラリアにいたとき、近所にある広い公園にて、大の字で寝てた時だった。

だけど、より平和を強く意識するのは、意外にもテロや災害のニュースを見たときだ。

これらのことを抽象化すると、

得たい感情(「美味しい」や「平和さ」)と「正反対の感情」をあえて持つことが、得たい感情を強化させるのだろう。

当たり前のように、感じることのできるポジティブな感情は、日常の中に埋もれてしまうもの。だからこそ、あえてネガティブな感情を入れることが、豊かな時代で、より良いものを追求する日本人に受けると思う。これを「しあわせ再確認ビジネス」と呼ぼう。

「しあわせ再確認ビジネス」は不快感を抑える

このビジネスプランに従い「まずいレストラン」を経営するとしよう。

ターゲット:素直な性格、20代、男女
ビジョン:まずさを通して”美味しい生活”の幸せを再確認してもらう

このビジネスのポイントは、不快感をできるだけ抑えることだ。なぜなら、あくまでもビジョンの通りであるから、まずいの比較対象と評価基準を得てもらうだけで良い。そうなると、目指すべき味の評価は、

1.めっちゃうまい

2.うまい

3.まあ、食べられる

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4.食べたいとは思わない

5.まずい

6.一生食べたくない

上記のような段階評価だと、4と5の中間くらいを目指すことになる。過度に味付けを濃くしたり、辛くしたり、酸っぱくしたりして、6を目指すことはしない。

外装を汚くしたり、定員の態度が悪かったりして、店自体の評価を下げることもしない。あくまで「インテリアがキレイで清潔感があり、接客も良いものの、まずい店」を目指す。それが、しあわせさ確認ビジネスとしての「まずいレストラン」だ。

最後に

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この前テレビで、ボンカレーのインド進出を密着してて、観てた。これもある意味、インドの人からすると「しあわせ再確認ビジネス」だと思う。

日本のカレーを食べることで、インドのカレーの味を比較して評価できるようになる。そこで「インドのカレー、やっぱめっちゃうまいやん!」となれば、しあわせを再確認できるから。

まあ、こんな売り方、ボンカレーがするとは思えないけどね。

あ、あとデートするときは、やっぱり美味しいお店に越したことはないと思う。「あえてまずい店選んだんだよ^ ^」とか言われたら、怖すぎますからね。 

しゃあなし「働いてやるか」くらいでちょうど良い

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すごい大雨。発展途上国のフィリピンで生活したせいか、洪水警報が出るほどの雨が降ると、こわい。

なぜこわいかって言うと、フィリピンだと、屋根や壁が日本よりも薄くて、音が響く。それにアスファルトが綺麗に整備されておらず、道が凹凸しているから雨が氾濫する。

その感覚がまだ抜けなくて、雨が降ると直感で恐怖を感じる。

だから今日は、一日中家の中にいた。それでズーッと、いろんなことを考えていて、特に「働くこと」について考えた。

働くって、なんだろう。僕、これでも就活を控えた大学3回生なんで、それなりに考えるわけじゃないですか。

それを突き詰めて行くと「なんで生きているんだろう」とふと、思った。

思うに、生きる理由なんてない。赤ちゃんのときに「オレ、○○みたいな人間になるために生きようと思います!」って宣言したことないです。

ただ、なぜか、「生かされている」んですよね。

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だけど生きてる以上、何かしないとヒマだから何かする。それが根本にあって、みんな活動の1つとしての「働く」を選ぶんだと思います。

そして働くことを含む諸活動を通して、生きることに「意味づけ」してるだけなんです。生きるってことに、働くことは必要ではないんですよね。

だから社会人の人に「なんで働いてるんですか?」って言って「社会貢献がしたくて〜」みたいな固いこと言ってるのは、建前としては正しいと思うけど、本音ではないと。ただただ、自分の生きることを論理的に意味づけしてるだけ。

そう考えたら、働くことに対して、もっと楽になっていいと思った。「就活うつ」ってのがあるみたいだけど、考えすぎたんだろうね。働かなくても、生きていける。他のことをして、生きればいい。もし働くとしても、しゃあなし「働いてやるか」くらいでちょうど良いんです。

最後に

僕のインターンしていた会社の元上司に「人生死ぬまで暇つぶし」とかいうモットー?の人がいる。最初は意味がわからなかったけど、結構「生きること」の本質をついている気がする。

人生を消耗しすぎる働き方が、全てではないのかもしれないから。もちろん人生一度きりなので、バリバリ働くのもOK。それは人次第なのでしょうね。 

注意したいとき、そのまま注意してしまうのは二流

散々注意してきた後に「まあ、私も人のこと言えんけど」といういう友達いませんか?
僕、このような人とは距離を置こうと思いました。
 
というのも、先日、ゼミの飲み会があって参加しました。私が休学したため、ほとんどのゼミ生が1つ下の学年になるんですよ。そしたら、授業中は割と静かな生徒でも、飲みの席になると、雰囲気に乗じて本音を言ってくるわけです。
 
「ナオキケーさんの論理的すぎるところは、たまに冷たさを感じます。直した方がいいですよ」
 
この発言に関しては、その通りだと思いました。「確かに、オレ、論理的に話すぎるところがある。感情的に話したほうが、親近感がわく人になれるだろうなと。」
 
続いて、
 
「ナオキケーさんは、”でも”が多すぎます。人の話を聞こうとしていますか?」
 
と言われました。この質問に関しては「ん?」と思いました。正直、自信があったんです。そこらへんの大学生よりかは「人の意見を尊重しよう」としていると。それでも、もし僕が「でも」という言葉を使うときは、相当その発言が的外れだと。そういう自信があった。
 
しかし、この発言って言ったもん勝ちなんですよね。質問に対しても「そんなことないよ。オレ、”でも”ってあんま使わない」と言ってしまうと、相手から「ホラ、”でも”って感じで、否定してるじゃないですか」と言われてしまう。
 
まじで、久しぶりに「こんなやつと話している暇ない」と思いましたが、飲み会なので逃げる場所がなかった。おそらく、注意の初めは私も納得いくような内容ばかりでしたが、途中から調子に乗ってきたんだと思います。
 
そいつは私の行動を散々注意した挙句、最後に「まあ、私も自分のこと言えんけど」の一言。
 
なに、保険かけとんねん。
 
こんな人間にはなりたくないと思った。
 
所詮、注意する人は、注意されるような人なのです。経験則でいうと、注意されないような人は注意したいときに、注意という手段ではなく”そそのかす”という手段を使って、示唆しようとします。
 
「そそのかせて気づかせるか、そのまま注意してしまうか」のちがい。でかすぎる。と感じた1日でした。
 
 

たしかに成長ってよくわからないネ

ナオキケーです(@naokikei41)。深夜に行われたW杯・日本対ベルギー戦、みなさん見ましたか?

面白かったですよね。手に汗握る試合とは、まさにこのことで、得点が両チーム間で動くシーソーのような展開は、サッカーの醍醐味だと思いました。

そんな中、本田選手を見て「成長をどのように定義するか」の重要性を再確認しました。

人によって、成長は違うでしょう

就職した友達と話してても、企業を選ぶ基準で「成長できるかどうか」というのが挙がります。実際のところ、成長って人によって違うじゃないですか。だからその人の「成長の定義」を共通の認識にしておかないと、話が理解できないんです。

だからこそ、成長をちゃんと定義しておかないといけない。

それを踏まえた上で、本田選手の成長の定義について考えたんです。

思うに、

・サッカーが上手くなること
・より目立つこと

この2つのどちらかなと思っていました。でも、より彼にとって本質的なのは、後者の「目立つこと」ではないかと。

もし仮に「サッカーが上手くなること」が彼にとって成長で「W杯で結果を残すことで、成長を実感できる」と考えているなら、代表引退なんか言わずに、キングカズみたいに練習し続けると思うんです。

でも、そうじゃなかった。彼にとって「より目立った存在になること」が成長。だとすると、彼が「サッカーに未練ない」とか言い出して現役を引退しても、おかしくありません。

買収したクラブチームの監督をするなど「より目立った存在なる方法」を年相応に考え、成長をはかるでしょう。

まあ、それも全て「どのように成長を定義するか」なんですけどね。

最後に

 こんなことを言ってる僕の成長って、「人と違う存在になること」なんですよね。だから昔から服装や髪型は割と奇抜で「変わっている人」とより多くの人(一般人)から思われることで、成長を感じていたんだと思います。

最近は、見た目は落ち着きつつある傾向にあります。なぜなら発言で人との違いを表現できるから。

「成長したい」っていう想いは、なにかしらの心に残る原体験に起因するものなので、皆さんも考えてみてください。

 

【人間関係】ヒトは、どう批判と向き合うべきか

どうも、絶賛大学生をしているナオキケー(@naokikei41)です。私が休学するまで同じ学年だった友達(4年生)が、無事就活を終えました。そして遊びに行くようになり、昔のイケイケしていた学生生活を取り戻しつつあります。(笑)

ところで、批判されるときってありますよね。そんなとき、どう向き合ってますか?

結論から言うと、基本的に批判は気にする必要はないです。というのも、よくよく考えみると、批判って「嫉妬」が起因していると思います。

※批判する状況と対象は以下のように整理できます。

批判する状況……批判する対象がいない場面
批判する対象……活躍しているヒト

このように、嫉妬絡みで批判している人がほとんどではないでしょうか。本音では「(批判する)あの人みたいに、活躍したい(けど、俺にはできない)。」と思っているからこそ、悔しいから批判していまう。そんなくらいの感情と、論理だと思います。

「2ちゃん」や「なんj」ようなネット掲示板が、代表的な例ですね。

【悲報】大谷翔平さんの人生計画、達成率0%: なんじぇいスタジアム@なんJまとめ

なので客観的な評価のように思えますが、実は批判はいつも、客観的に似せた主観的意見でしかありません。そのため、批判は本質的な指摘でない可能性が高いので、いちいち気にしていられないと考えました。

気にするべき批判は、自分のためを思ってくれてる指摘

それでも、気にするべき批判はあるのでしょうか。

結論から言うと、考えようによっては「ある」と言えます。というのも、批判と似た言葉に「注意」があります。これらの言葉の違いは、指摘の働きかけ方によるでしょう。

批判…間接的に指摘すること
注意…直接的に指摘すること

注意もまた「批判」として捉えるのであれば、注意は気にするべき批判です。なぜなら注意は指摘する対象に面と向かっているので、言葉に責任を持ち発言していることもあります。そのため本質的で、その対象を考えた指摘である可能性が高くなるからです。

それでも、注意にも「お前のためを思って〜」と、結局自分の指摘力を顕示したいだけのものもありますから、見極めする必要はあります。

参考:【人間関係】「お前のためを想って〜」と注意するのは、もうやめよう

さいごに

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今日はW杯の決勝トーナメント「日本対ドイツ」ですね。実はこの記事を書こうと思ったのは、サッカー日本代表本田圭佑選手のプロフェッショナルを観たからでした。

「本田選手にとって批判ってなんだろ?」と考えているうちに、批判に対して自分なりに答えが出せました。個人的には、サッカーの姿だけでなく、考え方もカッコ良いと思えるアスリートですので、贔屓しながら日本代表を応援したいと思います。 

画像の引用元

http://sports.cnhubei.com/2014/0625/137190.shtml 

【人間関係】「お前のためを想って〜」と注意するのは、もうやめよう

注意することは、ストレス発散の道具じゃないよ

こんばんは、ナオキケー(@naokikei41)です。ここ最近、うっかりミスや、考え方を注意されることが多いです。そこで1つ思いました。

「お前のためを想って言うけど、〜したほうがいいよ。」と言うのはウソですよね。

実はコレ、お前(注意されるひと)のことを想ってないんです。 自分のためですよ。自分が迷惑を被って、多少ばかりともストレスがたまり、そのストレスを発散するために言っているような気がしました。

注意することは、ストレス発散の道具じゃないよ。

「いや、他の人も同じように迷惑を被りそうだから、それを事前に防ぐため、私が注意してるんだ」と言うかもしれません。

でも「お前のためを想って〜」が発動するときって、注意される人が事前に何か、しでかしてますよね、当たり前ですけど。

注意される人が”良いこと”した後に「他の人だと迷惑と感じる行為だから、注意するけど〜」なんて言う人、見たことありません。

この手の注意には、注意する人のストレス発散が起因していると思いました。

だからこそ、この手の注意はすごく威圧的であることが多い。そこで改めて、注意するときこそ「本当に、相手のためを思っての注意か」と自問してあげてください。それを踏まえると、自然と気遣いのある注意になるはずです。

相手を想った注意をする3か条

  1. 人格否定していないか
  2. 注意する際に前置きは十分か
  3. 表情や話すスピードに配慮があるか

これらは、気遣いのある注意をするためのチェックリストです。

まず1つ目ですが、注意した相手が反論してきて、ヒートアップしてしまい、思わず「お前、ダメやな…」と言っていませんか?人格否定はいかなる注意の範疇を超えています。

2つ目に、注意する本題に入る前に「勘違いしてほしくないんだけど、本当に○○のことが大好きだから、言いたいことで〜、」のように前置きを置いて、相手に気遣いができているでしょうか。 

基本的に注意する内容は、相手(注意される人)から

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すると気持ちよくないことです。それを前置きなしに言っても、相手は嫌な気持ちになって終わり。すんなりと理解して、改善してくれるワケありません。

最後に、いらつきが顔に出ていませんか?スピードは、問い詰めるように速くなっていませんか?本当に相手を想っていれば、ゆっくり、伝わる速さかつ、優しい顔で注意しているはずです。

オブラートを包まずに生きてきたあなたへ

「お前のためを想って〜」を言っちゃう人って、自分のことを率直な人だと思ってる気がします。率直に、オブラートを包まず注意するのは構いません。でも「お前のためを想って〜」は、オブラートだけでなく、薬を飲むために不可欠な「水」までないようなものです。 

この場合「水」は気遣い。注意する内容を相手に円滑に飲み込んでもらうには、水の役割を果たす「気遣い」が必要ではないでしょうか。

自由に生きることが理想だと思う大学生のわたし(20)

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たくさんの価値観に触れるために、有名な本を読みあさっている。ビジネス書に限らず、とりあえず読む。今では著作権が50年以上(★)経ったものは、無料で読めるので、時代に関わらず読む。

そうして読み続けているうちに、引っかかるテーマに出会った。それは「自由に生きる」ということである。人は自由を求める。なんで?と聞かれても、そういうものだと思う。不自由の方が良いという人を聞いたことがない。(今回はこの点を掘り下げるつもりはない)

”自由に生きるってなんだ?”

今回はこの問いについて考えてみたい。

自由に生きるには、好きなことを仕事にすること

自由に生きるにはどうすれば良いのか?

結論から言えば、自由に生きるには、好きなことを仕事にするべきである。

仕事は生活と直結している。例えばひとは毎日、通勤も含めて10時間もの時間を仕事に費やしている。歯を磨いたり、お風呂に入るように、ひとはとうぜん毎日働く。そう考えると、仕事はライフスタイルである。

不自由の状態が「無理を強いられている状態」だと言い換えるなら、嫌なことを仕事にしているのは、自分の気持ちに対して無理を強いていると言える。その場合仕事をしているときは、不自由。つまりライフスタイルも不自由なのである。

具体例をあげよう。

僕は1年間休学をして、インターンをしている。語学学校でインターンをしていたときは、仕事を辞めて留学している日本人と話す機会が多かった。

大企業に勤めていた方に転職先を聞いてみると興味深い。実に多くの人がベンチャー企業や自営業など、前職とは違った業種を目指していたのである。

思うに、大企業に入って上司に怒られまくる。社会に揉まれる。彼らの仕事に対する新たな決断は、「あ、社会ってこんなもんなのか」と現実を味わった後に、「私はこういう世界に身を置くんじゃなくて、好きなことでやって生きたい」という教訓をもとに出した結論だ。

つまり自分に無理を強いることなく自由に生きるには、ライフスタイルである仕事自体を楽しいものにしなければならない。

大学のうちはしたいことを見つけられれば、それだけで上等

では仕事を楽しくするにはどうすればいいのか?

社会人であれば、前職で培ったスキルを趣味に活かすことだ。新しくスキルを身につけるより、身につけたスキルを趣味に活かすほうがずっと効率が良い。もちろん、そのためにはどうすればいいか考える必要がある。この課題においては、いわゆるアナロジー思考が有効だ。

アナロジー思考では、一見離れているもの同士の共通項を見つけ出して捉える。例えば、キャビアテンダントとして航空産業で働いていたスキルを、メディア業で活かせないかというと、否である。一見離れた業界に見えるが、キャビンアテンダントのもてなす力が生きるメディア業を探せば良いのだ。

大学生であれば、好きなことを見つけよう。好きなこととは何か?というのは意外と返答に困る質問である。注意すべきは、得意なものと好きなものを混同して考えないことだ。この2つは区別して考える。

得意なことは利己的であり、常に周りの目を気にしてしまうものである。一方で、好きなことはもっと静かで落ち着いたものである。周りのことを気にすることなく、そのことを考えているだけでニヤニヤしてしまうことだ。

こう考えれば、きっと本当の好きなことを見つけられるのではないか。

最後に

好きなことで生きていく

というのはユーチューバーの決まり文句である。一流企業で働いている人と比べ、学歴やスキルで言えば、劣る点はあるのかもしれない。それでも素晴らしいと思う点は、彼らが好きなことを仕事にしていること。それは自由であるし、結局、人が行き着く本能の部分だと思っている。

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こちらはオーストラリアに来て出会ったカフェを営んでいる夫婦の写真。ずっと幸せそうだったし、自由そうだった。

収入が全てではないし、業種が全てでもない。仕事を選ぶ判断基準として、「自由に生きれそうか」を入れてみたいと思った。