頭サビ9割

ひとが評論するときは、いつだって客観的意見だ

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ナオキケーです。最近、村上春樹氏の「職業として小説家」という本を読んでいます。その本は、彼の小説に関わる意見が12テーマ記されており、小説家を目指す人にとってのガイドライン的役割だけではなく、純粋に彼の考え方が勉強になります。

ーー『風の歌を聴け』を書いて、それが「群像」の新人賞を取ったとき、僕が当時経営をしていた店を、高校時代の同級生が訪ねてきて、「あれくらいのものでよければ、おれだって書ける」と言って帰って行きました。そう言われて、もちろんちょっとむっとしたけれど、それと同時にわりに素直に「まあたしかにあいつの言うとおりかもしれない。あれくらいのものなら、たぶん誰だって書けるだろうしな」とも思いました。(中略)とはいえその同級生がそのあと自分の小説を書いたという話は耳にしていません。

コンテンツを薄めることを恐れるな

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そういえば最近、ブログ投稿をしていませんでした。記事を書く気が無かったというよりかは、記事執筆が完遂できなかったのです。何度も机の前に向かい、思い立ったことをタイプしていました。しかし、「うーん、これじゃあ世に挙げられないなあ」と頭を抱え込んでしまい、執筆を止めていたのです。

インターンをしていたとき、”内容の濃さ”ついて考えたことがあります。毎日記事をUPする代わりに、内容が薄いひと。内容が濃いのだけれど、数日に一回の頻度でしか投稿できないひと。

もちろん、毎日内容の濃い記事を投稿するほうが良いです。ただ上記二択のうちなら、どちらが良いでしょうか?私は、数日に一回でも内容の濃いものを挙げたいタチでした。しかし、インターン先の上司からこんな言葉をいただいたことがあります。

”コンテンツを薄めることを恐れるな” 

ひとが評論するときは、いつだって自分を中心に客観的判断を下す

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私は恐れていただけかもしれません。内容の濃さを言い訳にして、毎日投稿することから逃げていました。毎日投稿していないにもかかわらず私は「記事の内容が薄いものをあげるくらいだったら、毎日投稿しないほうがマシだ」と思っていたんですね。

毎日投稿していないのに、毎日投稿を客観的に判断していたのです。

これがものすごく危険なことだと感じました。ひとが評論(判断)するときは、いつだって客観的です。しかし自分にとって損が生まれるとき、強すぎるバイアスをかけてしまいます。

初めに挙げたように、村上春樹は純文学作家の登竜門である「群像」の新人賞をを受賞しました。にもかかわらず、「あれくらいものでよければ、おれだって書ける」と高校時代の友人に言われたそうです。この話も同じような気がします。実際に小説を書いていない友人が小説を正当に評価できるわけがありません。そこには強いバイアスが伴って判断が下されているのです。

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自己中心的に客観的判断を下すときほど、自分勝手なことはありません。それは一種の暴力に近いものがあります。

強いバイアスのかかった客観的判断は、村上春樹の友人のように、面と向かって下されるときよりも、本人のいないところで、陰口として下されることが大半です。個人的意には、自分のしたことを、していない人に、評価されること自体、あまり嬉しくありません。評価する人自体が評価に値しないと言うか。そんな人にバイアスありきの判断をされたときには…。村上春樹のように、前向きに捉えられるでしょうか?

終わりに

何が伝えたいかと言うと、「やってもないことであれば、安易に評価しないほうが良い」ということです。このこと、わかってはいるんですが、案外身の回りで起こりがちではないでしょうか?