頭サビ9割

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〜自分と向き合う時間〜

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自己表現しているつもりが、できていないと気づいてイヤになる。 #375

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・年賀状というのがあった。「あった」と表現すると、なくなってしまったようなのだが、実際にところ消えていく真っ只中だ。ぼくが最後に年賀状を書いたのは、高校生のときだと思う。そのときですらナアナアで、送ってくれたひとに返す程度のものになっていた。

そんな高校生のときに、SNSが発展していった。当時の感覚として、年賀状の文化がなくなる気がしたのを覚えている。なぜなら、ネットを介すことで手間が省ける。従来だと元旦に届けようものなら、クリスマスくらいに投函しておくべきだった。それが同じ日に届けるとしても、1月1日中に送ればよくなった。煩わしくない。

年賀状という文化が消えつつあるのは、そんな小さなことによるのだと思う。同じ「あいさつ」なら、別に紙でなくともネットでいいじゃないか。世の中で今、受け入れられていることは、そうした小さな便利を追求した結果でもある。それは決して悪いことではないが、変化することで見えてくる失った良さもあった。

年賀状の場合、書いてみると心地のよいものであった。というのも年賀状は、その1年でお世話になったひとに対する、感謝の気持ちを踏まえた「新年の挨拶」だ。友達か先生かの違いはもちろん、友達ですらメッセージが異なる。”1年に1回だし”、想いをしっかり伝えよう。だからハガキが白いキャンバスみたく、さまざまに表現したくなる。

年賀状は(実質的に)なにを書いても良かった。それが素晴らしかった。誰から頼まれたわけでもなく、自分の思いのままに書ける機会が年賀状にはあったのである。(やはり1年に1回という特別感も大きい)「ウェブでの新年の挨拶」はというと”気軽さ”が押し出された結果、メッセージも簡素にならざるを得なくなると思う。

「自分の思いのままに書ける機会」だけ切り取れば、SNS自体の特徴だ。しかしSNSは自由度が高すぎるあまり、内外の制約を受けやすい。前述のウェブ年賀状であれば「簡素なほうが、いいよな」と考えてしまうし、ツイッターなら「上司がフォローしてるし、呟かないでおこう」といったように。意外と思いのままに、書けないことがある。

思いのまま自己表現しているつもりが、できていないと気づいてイヤになる。SNSは身近で手軽だからこその、むつかしさがある。せめてウェブでさえ、ウェブでなくとも、なにも考えずに自己表現できるソースを持っていたい。ぼくにとって、このブログ自体がそうあり続けますように、と願っておこう。

 

今日も「頭サビ9割」に来てくださって、ありがとうございました。