頭サビ9割

頭サビ9割

〜自分と向き合う時間〜

MENU

「けっきょくは物足りない」から表現したい。 #382

f:id:noad2203:20200621231902j:plain

・ひとが「表現する」という行為について、その理由を考えてしまった。

たまたまSNSで流れてきた「めずらしく、広告の話。」という記事が気になった。そこでは、株式会社ほぼ日の糸井重里氏と、The Breakthrough Company GOという会社の三浦崇宏氏が「広告」について思いの丈を語っている。

以下、ふたりのやりとりについて、気になるところがあった。

三浦 ぼく、博報堂にいる間ずっと、「三浦は殺気を消したらもっとよくなる」って言われてたんです。だけど結局消せないまま、いまに至ってて。

糸井 そこはたぶん、若い人全員が思う「自分はまだ認められてないんじゃないか」ってことじゃないかなあ。おおもとの愛され方の問題じゃないですかね。「表現」って、それまでのところで愛され方がちょっと足りなかった人がやるんじゃないの?ぼくなんかはそう思うけどね。

この部分を読んで、「表現は、愛され方がちょっと足りなかった人がすること」だと記述は、うまいことばだなあと思った。たしかに表現というのは、性格に偏りや欠落、僻みがあるひとのほうが、おもしろい。お笑い芸人なんて、わかりやすい例だ。一方でお嬢様のように、大切に育てられたひとは表現がおもしろくないことが多い。

十分に愛されて育ったきたひとには、「表現をしなくても、今までやってこれた」からこそ、表現する必要がないのだ。「表現したい」という想いは、自分の奥底にある”感情”に起因するのだと思う。だからひとに依頼された「表現物」はなかなか表現しきれないし、愛に満ちていて”表現する必要のない状況”で育まれるものではない。

「けっきょくは物足りない」から、表現したいのだ。心からね。

そもそも糸井さんは「現代の広告」を作ったと言っても過言ではないくらい、伝説的なコピーライターだ。一方の三浦さんも、2020年の広告業界で知らぬものはいないほど、活躍されている方である。そんなお二方が「表現という行為は、”感情を表すこと”だ」という意味の答えに落ち着いていたのが印象的だった。そうなのか、と。

そうであれば、感情が揺さぶられる経験をこれからも積んでいこうと思う。その過程で「愛の欠落」があったとしても、それはおかしなことではない。そして”「表現をしなきゃ気持ちがおさまらない」くらいの、赤ん坊が泣き叫ぶような”感じで、表現できればいいよなあ。

 

今日も「頭サビ9割」に来てくださって、ありがとうございました。