正義といっしょに #110
ベトナム・ハノイの
とある収容所だった施設に行った。
フランス軍に統治されていたとき、
実際に使われていたところ。
それだけでなく、
ベトナム戦争(1955-1975)が
どのようなものだったか、
知れるようになっている。
歴史教育は「自国」中心に書かれるもの。
ベトナムの場合だと、
フランスやアメリカが敵国として描かれる。
疑問だった。
フランスやアメリカは、
ほんとうに敵だったのかな。
考えてみると、
正義というのは異なって当然だ。
特に文化が違うと、
同じであるほうが少ない。
そんな「正義」は
秘めるものであって、
おおっぴらにしない。
すごく大切にされているもの。
だからこそ、
伝えようとするときは
特別な状況にあって、
争いが起こってしまうことがある。
つまり敵なのかは、
正義の視点によって異なるのかもしれない。
ベトナムの正義からすれば
敵になってしまったけど、
第三国かつ同盟国の日本からすれば、
少なくともアメリカは敵でなかったように。
***
国レベルの話でなくとも、
僕らにも正義がある。
しかし国レベルでも、個人レベルでも。
正義はぶつけたところで、
ポジティブな未来を導かない。
じゃあ、どうすればいいかといえば
正義は秘めたまま、
相違から生まれるモヤモヤを溜めまくる。
気分は悪い、それでも
「もうこれ以上は無理だ」
というくらいに我慢すれば、
一気になにかが爆発すると思って。
かの有名な
「芸術は爆発だ」
という岡本太郎のことばは、
まさしく正義レベルで生じたモヤモヤ、
その想いを溜めた先に
クリエイティブな発想が
生まれると意味するんじゃないかな。
特に求めることなく、正義といっしょに生きる。
今日も「頭サビ9割」に来てくださって、ありがとうございました。
「我慢」というと、いまどき
「我慢せず、自分がしたいようにすればいい」
というひとがいるけれど、
そういうひとほど、
我慢するのが面倒なだけだよなあ。