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「日本の住みにくさ」の正体 #112

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単刀直入に言わせてもらうと、
僕にとって日本は住みにくい。
ということを、
ひさしぶりに海外にいて感じた。
息苦しいので、窓の近くに行きたくなる。
そんな気持ち。

「じゃあ、海外に住めばいいじゃないかあ」
というひとがいるかもしれない。
そのとおり。だけど
たくさんの良いところが、日本にはある。
それに僕は「日本でしたいこと」があって、
海外に住むことはできない、今のところ。

「日本の住みにくさ」の正体は、
コミュニケーションをしすぎてしまうことだ。

経営学では、日本と外国の違いを考えるとき
「言語」「文化」「社会制度」
という視点で捉える。

今回は「言語」と「文化」という視点から、
サクッと考えてみよう。

***

日本人の私が海外に行くと、
言語の違いが生まれる。
しかし日本では当然
日本語でやりとりできるので、
言語の違いは生まれない。

僕はアジア周遊中に
英語でのやりとりが多かった。
そのときに感じたのは
英語はいたってシンプルで、
かしこまった言葉遣いをする必要がない。
ということ。

台湾で働く日本人に聞いた話では、
日本語を話せる台湾人は、
日本語を話せない台湾人に比べ、
ふだんから気を遣うようになるらしい。
彼らの違いは「日本語が話せるかどうか」である。

このような例から見てとれるように
僕は日本に帰国した今、
日本語には「独特の気遣い」が含まれると感じた。

店員「500円でございます」
僕「(お金を出して)こちらでお願いします」
店員「1000円お預かりしましたので、500円のお返しです」
僕「ありがとうございます」
店員「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

こんなふうなやりとりが、一般的だろう。

しかし海外では、どうだろう。
店員「ファイブハンドレッド
僕「・・・(無言でお金を出す)」
店員「・・・(無言でお釣りを渡す)」
僕「センキュ」

といったような、やりとりでいい。
すごく楽だ。

「丁寧語」や「尊敬語」が存在する
日本語という言語特性と、
それらを日常的に求める日本社会。
余計な気遣いが、
過度なコミュニケーションを生んでいる。
英語のように、もっとシンプルな
コミュニケーションでいいんじゃないか。

***

2つ目の「文化」という視点で捉えれば、
日本人同士は同じ文化背景を持つ。

空港に到着し、
コンビニでおにぎりを買おうと思った。
レジを待つ人々の列に並ぶと、
店員の顔が見える。

明らかにめんどくさそうな顔。
「どうしてそんな顔するの?」
と思った。

文化の違う相手でも
「どうしてそんなコト、そんな顔をするの?」
と疑問を抱くことが初めのうちだとある。
しかし、その経験を繰り返すうちに、
そういう「文化」だから仕方がない
と切る捨てるようになる。

文化が違えば、そりゃあ僕には
理解できないことはあるよねえ。
じゃあ、あんなコトをされても
仕方ないよなあ。
というように。

日本人同士だと、
「同じ日本人同士なのに」
と自分を比較対象に入れてしまい、考える
「どうしてそんなコト、そんな顔をしてしまうのか」。
文化が同じだけに、
自分と違うことをするひとを見れば
その理由を知りたくなる。

このように相手と
「ノンバーバルなコミュニケーション」を
意図せずに行ってしまうことが、
日本の生活ではある。

***

日本は住みにくい。
海外と比較して
”必要のないコミュニケーション”をとってしまうから。
考えてみれば
コミュニケーションって、疲れるでしょう?

コミュニケーションは
サプリメントのようなもので、
取りすぎは体に毒だ。

でも、こればっかりは仕方がなくて、
日本に住む日本人は、みんな感じ続けていること。
これからも、ずっと。
「そのような国に住んでいる」
というのを理解して、
踏ん張りながら
そのほかの幸せを享受しようか。

 

今日も「頭サビ9割」に来てくださって、ありがとうございました。
それでも好きよ、日本。(I proud of Japan.)