頭サビ9割

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〜自分と向き合う時間〜

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一般論や「べき論」がある世界の息苦しさ #333

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・「私は〜好きだ」という話は、どうしてこうも素敵なのだろう。ネコが好きとか、アニメが好きとか、餃子が好きとか、ゴスペラーズが好きとか・・・最近になり、そういう話をよく耳にする。熱心に愛を持って伝えるさまの凛々しさ、それは対面じゃくても、たとえ文章でも感じられる。好きという意思表示は「否定されるかもしれない」というある種の怖さを乗り越えているから、やはりカッコいい。

一方で、こんな話を引用してみる。

ある人が良いと思っていることが、また別のある人びとにとっては暴力として働いてしまうのはなぜかというと、それが語られるとき、徹底的に個人的な、「(私は)これが良いと思う」という語り方ではなく、「それは良いものだ。なぜなら、それは<一般的に>良いとされているからだ」という語り方になっているからだ。

引用:断片的なものの社会学

上記、引用先の文章は「個人」の主観的な意見と、「社会」の客観的な意見を対比させている。これを踏まえると、個人的な「私はこれが好き」だという想いは誰も傷つけないけれど、「これは<一般的に>で好まれる」という意見は、人を傷つけかねない。

たとえば「ガンダムが好き!」という想いを「ガンダムは一般的に好かれてるんだ」と説明をしてしまうと、「好きなひと」とそうでないひとの間に区別が生まれる。SNSでも、インスタグラムは好きなものを淡々と載せるメディアだが、ツイッターは様々な畑のひとが持論を”一般論”として語るメディアでもある。するとツイッターでは、参加者の中に分断が起こる。

ひとは分断を起こす必要がないし、気をつければ起こさないで済む。自分が良いと思っていることや好きなことを、「ワタシは」とつければいいだけだ。一般論や「べき論」を通して排他的な世界を作るのは、他者への暴力になりかねない、とわたしは思いました。※この文章は特定の誰かを想定したメッセージではなく、単なる読んだ本のインプットです……!(とわたしは思います)

 

今日も「頭サビ9割」に来てくださって、ありがとうございました。