頭サビ9割

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〜自分と向き合う時間〜

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マイノリティの反対 #409

aerial view photography of houses during golden hour

世の中には「在日コリアン」「障害者」「ゲイ」といったラベルを貼られ、差別されるひとがいる。そんなひとたちの人生から、ひいては不安や葛藤から感じることは多い。

とくに「在日コリアン」とラベリングされるひとに話を聞くと、文化面では日本だけでなくコリアにも影響を受けているようだ。例えばキムチを食べるのが、生まれながらの習慣だったりする。とはいえ彼らは見た目、ことば、名前も場合によっては同じで、彼らが国籍や生まれに言及しない限り、ぼくらは「在日コリアン」だとは分からない。

ただ国籍や生まれによって差別をされるというのは、理不尽が甚だしいのだが、彼ら自身はどう思っているのだろう。気にしていない、という声も聞く。でも、そのことばにたどり着くまでには「気にしてきた」過去があったと思う。あるひとは、こんなことを言っていた。

在日コリアン」の対義語としては、便宜的に「日本人」が持ってこられるけれども、そもそもこの二つは同じ平面に並んで存在しているのではない。(中略)一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に「日本人という経験」があるのではない。一方に「在日コリアンという経験」があり、そして他方に、「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人びとがいるのである。

いわゆるマジョリティと呼ばれるひとは、マイノリティと呼ばれるようなひとが感じることを経験もせずに、考えることもなく生きることができる。在日コリアンをマイノリティと扱うのなら、在日コリアンのひとが感じた課題と向き合うことなく生きてきたようなひとを、マジョリティと言えるのかもしれない。

大切なひとがマイノリティとして扱われいる、または扱われた過去があるのなら、マジョリティの人間は、その事実を触れないでおくのではなく、「民族というもの」について彼らが考えてきたことを知ろうとしたほうが良いと思っている。例えば「在日コリアン」であることを教えてもらったときに、「あーそうなんだあ」で終わらせない。

というのもぼくは、聞くことは敬意の表れなのだと信じている。そのひとの民族的な一面も含め、敬意を持っていることを表すためにも、ありのままに聞きたいと思っている。

 

今日も「頭サビ9割」に来てくださって、ありがとうございました。語弊が出そうなので、ここまでで。