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求めすぎない「コミュニケーションツール」としてのTwitter #329

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・きっとゴールデンウィークは、Twitter(以下:ツイッター)をやらない。スマホにあるアプリをふと消してしまったのは、その不自由さを感じてしまったからだ。

最近強く感じるのは、ツイッターは優れたアウトプットソースである。しかしコミュニケーションツールとして、対面でのやりとりには叶わないということだ。それはツイッターだと、議論が行われにくい点にあると思う。なぜなら「書く」という特性上「話す」より語弊が生まれやすく、お互いの意図が正しく読み取りづらい。一方で対面だと表情が分かるし、文章より冗長になりやすいぶん、ニュアンスが伝わりやすい。

そのようにツイッターにおいて「議論ができない」というのは、大きな不自由である。その結果、呟くテーマも自然に限られてしまう。異なる意見が出やすいもの(政治、思想そのものなど)は呟けないし、呟いたとしてもどこか消化不良感が否めない。もちろん”議論しているようで噛み合わない状態”をすり合わせれば良いけれど、現実的に片手間のツイッターにそのリソースを割くひとは少ない。

結局のところツイッターで呟かれている内容は、その投稿者によって精査されており、議論しなくても良い程度におさまっていると思う。もとよりツイッターを含めたSNSは自己承認が目的で、アウトプットソースであり、コミュニケーションソースとしての役割を求めすぎるべきではないとも言える。そう思うとコロナ禍で対面でのやりとりが限られ、ツイッターにコミュニケーションを求めたくなる、しかし求めるほど不自由を感じる気がしてしまった今日この頃だ。

 

今日も「頭サビ9割」に来てくださって、ありがとうございました。